株式会社リベルタス・コンサルティング

消費行動について(その2): 消費決定の判断基準としての「合理性」

消費者は消費の決定に際してどういった判断基準を持っているのでしょうか? 消費の判断基準には「価格が安いか」「デザインがカッコいいか」「機能が優れているか」など様々なものがありますが、本稿ではそういった個別的な判断基準の基礎にある根源的な判断基準とされている「合理性」について考えます。

経済学の想定 -- 常に「合理的」な消費者

伝統的な経済学は、消費者は購買行動に際して常に「合理的」に行動すると想定します。辞書で「合理的」の意味を調べると、「道理や論理にかなっている様子、無駄がなく効率的である様子」と書かれていますが、経済学の言葉遣いを用いると、これは次のように表現できます。

消費者は、財・サービスの購入に際して、すべての利用可能な情報を用いつつ、かつ自分の予算制約を考慮しつつ、自分の効用(満足)を最大化するような消費の量と内訳を、適切かつ迅速に決定(計算)する。

「合理性」への疑問

経済学上の「合理性」に対しては、心理学など他の学問領域だけでなく、経済学の内部からも「極端すぎないか?」との疑問が示されています。

ここで、1つの小話を紹介しましょう。

経済学者のA氏とサラリーマンのB氏が人通りの多い商店街を歩いていたとき、ふたりの間でこんなやり取りが交わされた。
B氏:おい、そこの道端に500円玉が落ちているぞ!
A氏:まさか、そんなわけないだろう。もし本当に500円玉が落ちているなら、もうとっくに誰かがそれを拾っているはずさ。

経済学者であるA氏は「合理的」な人の代表です。 A氏は、いま自分が人通りの多い商店街にいるという情報を念頭に、500円玉が落ちていれば人は必ずそれを拾って満足するという判断基準に基づいて、B氏に対して上のように「合理的」に返答しているわけです。 しかし、あり得ないと思っても、とりあえず「ホント?」と言いながら道端の500円玉を探すのが普通の人ではないでしょうか? 経済学が想定する「合理性」は、ともすれば非常識で、ロボットのような融通の利かない人物像を想起させます。上記の小話はそのことを痛烈に皮肉っています。

限定合理性

近年、伝統的経済学の批判的再検討が進み、完璧な「合理性」の想定に修正が加えられようとしています。そうした中で提示された1つの概念が「限定合理性」です。これは要するに、人間の合理性には多かれ少なかれ限界・制約があり、消費の決定も非合理性から一定の影響を受けるということです。

さて、ここで次のゲーム問題を考えてみて下さい。

いまあなたは、ある有名画家の絵画のオークションに参加しています。あなたはその画家の熱狂的ファンであり、その作品を手に入れるために大金を持参しました。ところが、その画家は次のように言っています。「オークションで私の絵の値段が際限なくつり上がると、ごくひと握りの金持ちにしかこの絵を買うことができない。それは不公平であるし、本当に私の絵の良さを解ってくれる人が、この絵を買えないおそれがある」。

そして画家は、オークションに次のようなルールを設定すると宣言しました。

  1. 各参加者は、他人に知られないように、0円〜100万円の範囲で買値を選ぶ。
  2. オークション審判は、各参加者が提示した買値を集計し、平均値Xを算出する。
  3. 平均値Xに3分の2を乗じ、その額を売値の基準額Yとする。
  4. 最終的に、Yに最も近い買値を提示した参加者が、この絵の購入権を得る。

あなた自身は、その絵には100万円の価値があると評価しており、予算も100万円以上あります。このような状況下で、あなたはこの絵にいくらの買値を付けますか?

注:上掲の多田(2003年)掲載のゲーム事例に着想を得て筆者が作成。

このゲームにはちょっとした罠があります。まず、起こり得る平均値Xの最大値は、全員が100万円の買値を選択した場合の100万円です。ここから、66.7万円より大きな値を選択したら購入権を獲得できないことが分かります。なぜなら、 Y = 100万円 × 3分の2 = 66.7万円  であるからです。 次に、参加者全員が上の点を理解しているならば、起こり得る平均値Xの最大値は100万円ではなく、66.7万円へと低下します。そしてその時点で、各参加者は、44.4万円より大きな値を選択したら購入権を獲得できないことに気づきます。 Y = 66.7万円 × 3分の2 = 44.4万円 さらに、44.4万円が起こり得るXの最大値だと全員が気づいた時点で、各参加者は29.6万円より大きな値を選択したら購入件を獲得できないことに気づきます。 Y = 44.4万円 × 3分の2 = 29.6万円 ・・・ これがひたすら繰り返される。

このような気づきと再計算が無限に繰り返される結果、各参加者にとって、絵の購入件を獲得する上で最も「合理的」な買値は“0円”ということになります。さて、本稿を読んでいらっしゃるあなたは、いくらの買値を付けましたか?

筆者が非常勤講師(消費行動論)を務めているある大学の学生(50名)に上記ゲームに回答してもらったところ、Xの平均値は54.8万円でした。この値から逆算すると、回答者は全体として2〜3回しか繰り返し計算を行わなかったことになります。ちなみに、筆者が初めてこのゲームを経験した際に付けた買値は70万円でした。もし、繰り返し計算を何度も繰り返して0円という“正解”に到達できる人が「合理的な消費者」であるとするならば、回答者や筆者は決して「合理的」であるとは言えません。しかし、回答者(54.8万円)と「合理的な消費者」(0円)のどちらが現実の消費者かと問われれば、前者であると答える人の方が多いのではないでしょうか? なお、回答者の名誉のために申し添えれば、このゲームへの回答と回答者のIQ(知能指数)に関連性はないとの研究結果があります。また、短時間で回答しようと長時間じっくり考えようと、回答に有意な差異は生じないとの実験報告もあります。

以上の事実から考えると、人は生まれながらにして経済学が想定するような「合理性」を備えているとは断言できません。完璧に合理的でもなく、かといってまったく非合理的でもなく、その中間で揺れ動く存在であると言えましょう。まさに「限定合理的」な存在です。だからこそ我々は、溢れ返る多様な商品の前で何を買うべきか途方に暮れたり、買うべきものを自分で決められないので友人に助言を求めたり、流行品や口コミ情報に飛びついたりするのです。

規範としての「合理性」の意義

デパートやネットなどの多様な販売チャネル、商品の目まぐるしい入れ替わり、機能過多と思われるほどの性能の向上、変更が繰り返される製品技術標準、難解な安全基準、個人情報の流出、消費者を狙う詐欺行為の横行などに表れているように、現代の消費社会はどんどん高度化・複雑化し、消費被害のリスクも高まっています。これに伴い、消費者もどんどん賢くならなければなりません。

上で述べたように人は完全に「合理的」ではありませんが、現代社会を賢く生きつつ自らの消費の効用(満足)を高める能力を習得すべきであることも事実です。そのことを考えるとき、経済学の主張する「合理性」がこれまでとは違った意味で捉えられます。つまり、自分は完全には「合理的」でないと各消費者が自覚した上で、自身の消費判断基準(例えば機能重視、安全重視、環境重視、デザイン重視など)をバランス良く持ち、それに従って「合理的」に行動するよう心がけること。こうした、ある意味ではごく当たり前の行動原理を、現代の消費社会に生きる我々はもっとしっかり持つべきでしょう。

「人は合理的か?」という問題を客観的な事実に基づいて考えると、完全な「合理性」を想定する経済学にとっては分が悪い結論に至ります。しかし一方で、“あるべき論”の立場から考えたとき、経済学の想定には先見性があるように感じられます。消費者を導く規範としての「合理性」の意義が再評価される日は案外近いもしれません。

参考文献

2006年7月11日
五十嵐 義明 (いがらし・よしあき)
※本稿は執筆者の個人的見解であり、弊社の公式見解を示すものではありません。
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